「Howを行ってる時は行為に没頭してて詳細を覚えてなくて、Whatは体験のインパクトが強く、当てはまる言葉が無く、Whyは大き過ぎて割り切れない答えを今も考えてる人」 それは一見、言語化できてない未熟な状態と言えるかもだけど、創作するという意味では、とても豊かな状態のような気もしてる。
未言語化のフェーズの製作者と出会った時、言語化の技術をすぐに教えることが良いとは限らない。混沌とした状態で探索を続けることを守ることが良い学びになることもある。 デザインを教える時に、この見極めが一番難しいような気がしてる。
混沌に留まる環境を作ること、その中に存在することは、一見進んでないように見えるけど、実はすごく技術と経験がいる。 ヘリコプターのホバリングのような感じ。見た目は止まってるけど凄く丁寧に周りの状況を読んで、留まることを行ってる。
須永研では、自由な感性で制作に没頭してた人が言語化の扉を開いたことで、今まで通り自由に創作できなくなる現象のことを「毒リンゴを食べた」と呼んでた。さいきん抜けてきたけど、私も言語化進めてた時は毒リンゴになってたような気がする。
デザイナーは作ったモノを語れることが大事だとは思うけど、語ること/記述することに力を入れると、身体全体で制作に没頭するモードが立ち上がらなくなることある。
もちろん「両方やろう」が正しいのだけど、制作と記述を行き来するモードの切り替えを自由に行うとのは、実はすごく難しいように感じてる。会得するまでの壁にどんなものがあるのか?意外と知られてない。自分の場合を書き出してみようかな。
このことの意味、わけのわからない感じを、いまだによく考えてる。 『わけのわからないものはわけのわからないまま受け入れればいいのだ。確かなことは、わからないものはわかることを拡げてくれるということだ。』
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清水淳子 | shimizu junko
デザインリサーチャー / 情報環境×視覚言語の研究 / 2009年 多摩美術大学情報デザイン学科卒業後 デザイナーに。2013年Tokyo Graphic Recorderとして活動開始。2019年、東京藝術大学デザイン科修士課程修了。現在、多摩美術大学情報デザイン学科専任講師として、多様な人々が集まる場で既存の境界線を再定義できる状態 “Reborder”を研究中。著書に「Graphic-Recorder-―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書」がある。 twitter@4mimimizuでも日々色々と発信してます。